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6月21日は森蘭丸の命日ということで、お墓参りに行ってきました。
1565年(永禄8年)に織田信長の家臣である森可成(もりよしなり)の三男として生まれた蘭丸は1577年(天正5年)に織田信長の小姓として召し抱えられ、1582年6月21日(天正10年6月2日)の本能寺の変で討たれた。
ここ可児市兼山は蘭丸の生誕地であり、蘭丸の父可成が戦死した時に創建されたという森家菩提寺の可成寺に蘭丸のお墓があります。
本堂の裏手の山を登っていくと森家の墓所にたどり着きます。
左から四男坊丸、三男蘭丸、五男力丸のお墓。
3人とも本能寺の変で亡くなったのです。
きっと「蘭丸祭り」の時はもっとにぎやかなんだろうけど、とてもひっそりした感じでした。
1565年(永禄8年)に織田信長の家臣である森可成(もりよしなり)の三男として生まれた蘭丸は1577年(天正5年)に織田信長の小姓として召し抱えられ、1582年6月21日(天正10年6月2日)の本能寺の変で討たれた。
ここ可児市兼山は蘭丸の生誕地であり、蘭丸の父可成が戦死した時に創建されたという森家菩提寺の可成寺に蘭丸のお墓があります。
本堂の裏手の山を登っていくと森家の墓所にたどり着きます。
左から四男坊丸、三男蘭丸、五男力丸のお墓。
3人とも本能寺の変で亡くなったのです。
きっと「蘭丸祭り」の時はもっとにぎやかなんだろうけど、とてもひっそりした感じでした。
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山形城址へ行くので、もう一か所どこかへと探してみたところ、山形と言えばここでしょうとばかりにすぐ出てくるのがここ<立石寺>、通称<山寺>。
松尾芭蕉が山寺にお詣りして「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだことで有名だとか。
すいません、全然しりませんでした。
とにかく山形にはなかなか行くことはできないだろうし、山形城址のあと<山寺>へ向かう。
平日だし、そんなに混んでる感じはしてなかったんだけど、<山寺>の近くで駐車場を探しはじめて人の多さにビックリ。
その時点でもまだ甘くみていた私たち。
なんと道路に行列が・・・・・・。
警備の人が「最後尾」って看板持って立ってる・・・・・・・。
何事かと思ったら、今年は50年に一度の御開帳で5月末まで、1時間待ちとのこと・・・・・。
普段こういう行列には並ばない主義の私たちなんだけど、やはしここはがんばるべき!・・・よね?
ここまでくるのに40分。
階段を上ってやっと<根本中堂>にたどり着く。
ここが立石寺の本堂で、この中に今回御開帳の本尊<薬師如来像>がいらっしゃるんだけど、本堂に入ってからまた長い行列。
ここはUSJか!
やっと出会えた<薬師如来像>はとてもしっかりした顔の仏様でした。
よい天気だし、もちろん<奥の院>まで行く。
<山門>から石段が800段余り。
途中に<せみ塚>がある。
松尾芭蕉の「閑さや・・・」の句を書いた短冊が埋められているといわれる塚だそうです。
そこらじゅうに人がいてどこが静かやねんと思ってたけど、ここはひっそりしてた。
<せみ塚>から少し上ったところに<仁王門>。
もちろん両脇に仁王様。
石段を上りきって、やっとたどり着く。
向かって右手が<奥の院>、左手が<大仏殿>。

立石寺を創建した慈覚大師円仁が祀られてる<開山堂>と百丈岩の上に建つ朱色の<納経堂>。
この崖の下に円仁の棺を納めたといわれていた入定窟があって1948年に調査が行われた。
そして伝説通り金棺が発見されて、棺の中には4体分の遺骨と首のない遺骨1体、慈覚大師頭部像が納められていたんだとか。
いったい何があったんだろう?????
岩場の窪みに建てられている<胎内堂>。
ここへ入るには谷に架けられた梯子を渡り、岩の下をくぐり抜ける「胎内くぐり」をしなくてならなくって、一般には立ち入り禁止だとか。
ちょっとだけ行ってみたいけど、ま、冷やかしでは立ち入れんよなぁ。
とにかく良いお天気で、とにかくすごい人で、とにかくそこらじゅうのお堂でご朱印をいただき、なんだかとっても楽しかったです。
山から下りてきて食べた「サクランボソフト」がものすごく美味しかった。
より大きな地図で あちこちマップ を表示
松尾芭蕉が山寺にお詣りして「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだことで有名だとか。
すいません、全然しりませんでした。
とにかく山形にはなかなか行くことはできないだろうし、山形城址のあと<山寺>へ向かう。
平日だし、そんなに混んでる感じはしてなかったんだけど、<山寺>の近くで駐車場を探しはじめて人の多さにビックリ。
その時点でもまだ甘くみていた私たち。
なんと道路に行列が・・・・・・。
警備の人が「最後尾」って看板持って立ってる・・・・・・・。
何事かと思ったら、今年は50年に一度の御開帳で5月末まで、1時間待ちとのこと・・・・・。
普段こういう行列には並ばない主義の私たちなんだけど、やはしここはがんばるべき!・・・よね?
ここまでくるのに40分。
階段を上ってやっと<根本中堂>にたどり着く。
ここが立石寺の本堂で、この中に今回御開帳の本尊<薬師如来像>がいらっしゃるんだけど、本堂に入ってからまた長い行列。
ここはUSJか!
やっと出会えた<薬師如来像>はとてもしっかりした顔の仏様でした。
よい天気だし、もちろん<奥の院>まで行く。
<山門>から石段が800段余り。
途中に<せみ塚>がある。
松尾芭蕉の「閑さや・・・」の句を書いた短冊が埋められているといわれる塚だそうです。
そこらじゅうに人がいてどこが静かやねんと思ってたけど、ここはひっそりしてた。
<せみ塚>から少し上ったところに<仁王門>。
もちろん両脇に仁王様。
石段を上りきって、やっとたどり着く。
向かって右手が<奥の院>、左手が<大仏殿>。
立石寺を創建した慈覚大師円仁が祀られてる<開山堂>と百丈岩の上に建つ朱色の<納経堂>。
この崖の下に円仁の棺を納めたといわれていた入定窟があって1948年に調査が行われた。
そして伝説通り金棺が発見されて、棺の中には4体分の遺骨と首のない遺骨1体、慈覚大師頭部像が納められていたんだとか。
いったい何があったんだろう?????
岩場の窪みに建てられている<胎内堂>。
ここへ入るには谷に架けられた梯子を渡り、岩の下をくぐり抜ける「胎内くぐり」をしなくてならなくって、一般には立ち入り禁止だとか。
ちょっとだけ行ってみたいけど、ま、冷やかしでは立ち入れんよなぁ。
とにかく良いお天気で、とにかくすごい人で、とにかくそこらじゅうのお堂でご朱印をいただき、なんだかとっても楽しかったです。
山から下りてきて食べた「サクランボソフト」がものすごく美味しかった。
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近いようでちと遠い<豊川稲荷>へお参りに行く。
<総門>をくぐると参道には屋台店がずらりと並んでて、お正月もずいぶん過ぎてるのに人でもなかなかだし、さすが<豊川稲荷>って感じ。
そして<山門>を抜けて、正面に<妙厳寺法堂>が見えてくる。
本尊の千手観音像が安置されてます。
そしてご朱印をいただこうと思ってはたと気づく。
(あれ?ここってお寺なんだ)
豊川 "稲荷" って言うんだからてっきり神社だと思ってたけどお寺用の朱印帳も持ってきててよかった。
と思ったのもつかの間、なんと<法堂>の横に<鳥居>があるのです。
ここで完全にパニクる。
いやいやお寺と神社が隣同士とかってよくあることじゃんと無理やり納得させ、こっちが<豊川稲荷>なんだとお参りする。
ところがだれも柏手打たないのです。
しーんとしたところで柏手を打つ勇気もなくお参りをすませる。
<奥の院>まで<千本のぼり>がはためく道を歩く。
途中、<霊狐塚>へ寄る。
ものすごい数の狐の像が圧巻。
そしてこの信者が奉納したという狐たちに囲まれた岩山に群がる人々が!
調べてみたら、この岩山の岩の隙間には硬貨が隠されていて、その硬貨をうまく取り出せたらお金持ちになると言われているのだとか。
取り出した硬貨はお守りにして持ち、お金が儲かったらお守りにした硬貨の何倍かの硬貨をこの岩山に隠しにくるというきまりということなんだけど、真剣に取り出そうとしている人ばかりで、隠しにきてる人はいなさそうだった。
そして<奥の院>。
なんとなく<奥の院>っていうと山道をうんと登らないとたどり着けないイメージがあるんだけど・・・・。
まっいっか。
それからそれから<景雲門>。
<豊川稲荷>というのは曹洞宗の寺院であり、正式には<妙厳寺(みょうごんじ)>。
<本殿>に祀られている鎮守の稲荷、吒枳尼天(だきにてん)はインド仏教の女神で、日本では稲荷信仰と習合して稲荷神と同一視されることになり、一般には<豊川稲荷>として知られることになったのだそうだ。
なので神社ではないんだけど商売繁盛の神さまということで境内の参道には鳥居が立っている。
といっても1871年に神仏分離令が出た時には鳥居は撤去され、現在の鳥居は戦後に建てられたものだとか。
それにしても寒かった!
<総門>をくぐると参道には屋台店がずらりと並んでて、お正月もずいぶん過ぎてるのに人でもなかなかだし、さすが<豊川稲荷>って感じ。
そして<山門>を抜けて、正面に<妙厳寺法堂>が見えてくる。
本尊の千手観音像が安置されてます。
そしてご朱印をいただこうと思ってはたと気づく。
(あれ?ここってお寺なんだ)
豊川 "稲荷" って言うんだからてっきり神社だと思ってたけどお寺用の朱印帳も持ってきててよかった。
と思ったのもつかの間、なんと<法堂>の横に<鳥居>があるのです。
ここで完全にパニクる。
いやいやお寺と神社が隣同士とかってよくあることじゃんと無理やり納得させ、こっちが<豊川稲荷>なんだとお参りする。
ところがだれも柏手打たないのです。
しーんとしたところで柏手を打つ勇気もなくお参りをすませる。
<奥の院>まで<千本のぼり>がはためく道を歩く。
途中、<霊狐塚>へ寄る。
ものすごい数の狐の像が圧巻。
そしてこの信者が奉納したという狐たちに囲まれた岩山に群がる人々が!
調べてみたら、この岩山の岩の隙間には硬貨が隠されていて、その硬貨をうまく取り出せたらお金持ちになると言われているのだとか。
取り出した硬貨はお守りにして持ち、お金が儲かったらお守りにした硬貨の何倍かの硬貨をこの岩山に隠しにくるというきまりということなんだけど、真剣に取り出そうとしている人ばかりで、隠しにきてる人はいなさそうだった。
そして<奥の院>。
なんとなく<奥の院>っていうと山道をうんと登らないとたどり着けないイメージがあるんだけど・・・・。
まっいっか。
それからそれから<景雲門>。
<豊川稲荷>というのは曹洞宗の寺院であり、正式には<妙厳寺(みょうごんじ)>。
<本殿>に祀られている鎮守の稲荷、吒枳尼天(だきにてん)はインド仏教の女神で、日本では稲荷信仰と習合して稲荷神と同一視されることになり、一般には<豊川稲荷>として知られることになったのだそうだ。
なので神社ではないんだけど商売繁盛の神さまということで境内の参道には鳥居が立っている。
といっても1871年に神仏分離令が出た時には鳥居は撤去され、現在の鳥居は戦後に建てられたものだとか。
それにしても寒かった!
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東京へ観劇に出た際、このところ気になっていた<泉岳寺>へお参りに。
ここ<泉岳寺>は、1612年に徳川家康が創建。
1641年、寛永の大火で焼失したんだけど、徳川家光の命により高輪の地に再建された。
家光えらい!
元禄赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られているわけです。
今まで年末恒例の「忠臣蔵」というものを見たことがなかった私ですが、ちょっとした縁がありまして、彼らのお墓参りをすることに。
墓所の手前でお線香100yen を購入するとこんなにたくさん、それも火を点けてくれる。
ちょっとびっくりするけど、それもそのはず。
浅野長矩と赤穂浪士四十七士と討ち入り以前に自害した萱野三平の供養塔があるわけで、これだけお線香があってもとても足りない感じ。
境内には吉良の首を洗ったという<首洗い井戸>がある。
そして<山門>脇には、昼行灯と呼ばれた大石内蔵助。
「元禄赤穂事件」というのは、元禄14年3月14日(1701年4月21日)に江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだことで浅野内匠頭は即日切腹、お家断絶となり、大石内蔵助以下、赤穂浪士47名は翌15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を殺害、この一連の事件のこと。
うーん、仇討ちはいかんと思うわけです。
ただ浅野内匠頭は綱吉に切腹を命じられたわけで、吉良を討つことは仇討ちとはちょっと違うんじゃ?と思うのです。
浅野内匠頭が「無念」っていって死んだので、その無念を晴らそうとしたってことなんだけど、それによってものすごくたくさんの人が死んだり、罰せられたりしてる。
浅野内匠頭って人はいったいどんな人だったんだろう?
せめて刃傷沙汰を起こしたことが正当な理由であって(現代の私には理解しかねることであったとしても)、赤穂浪士たちもたくさんの犠牲を払ってでも晴らさねばならない恨みであるとわかっての行動であってほしいと願う。
<山門>
<本殿>
ここ<泉岳寺>は、1612年に徳川家康が創建。
1641年、寛永の大火で焼失したんだけど、徳川家光の命により高輪の地に再建された。
家光えらい!
元禄赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られているわけです。
今まで年末恒例の「忠臣蔵」というものを見たことがなかった私ですが、ちょっとした縁がありまして、彼らのお墓参りをすることに。
墓所の手前でお線香100yen を購入するとこんなにたくさん、それも火を点けてくれる。
ちょっとびっくりするけど、それもそのはず。
浅野長矩と赤穂浪士四十七士と討ち入り以前に自害した萱野三平の供養塔があるわけで、これだけお線香があってもとても足りない感じ。
境内には吉良の首を洗ったという<首洗い井戸>がある。
そして<山門>脇には、昼行灯と呼ばれた大石内蔵助。
「元禄赤穂事件」というのは、元禄14年3月14日(1701年4月21日)に江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだことで浅野内匠頭は即日切腹、お家断絶となり、大石内蔵助以下、赤穂浪士47名は翌15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を殺害、この一連の事件のこと。
うーん、仇討ちはいかんと思うわけです。
ただ浅野内匠頭は綱吉に切腹を命じられたわけで、吉良を討つことは仇討ちとはちょっと違うんじゃ?と思うのです。
浅野内匠頭が「無念」っていって死んだので、その無念を晴らそうとしたってことなんだけど、それによってものすごくたくさんの人が死んだり、罰せられたりしてる。
浅野内匠頭って人はいったいどんな人だったんだろう?
せめて刃傷沙汰を起こしたことが正当な理由であって(現代の私には理解しかねることであったとしても)、赤穂浪士たちもたくさんの犠牲を払ってでも晴らさねばならない恨みであるとわかっての行動であってほしいと願う。
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