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日本100名城のひとつ<山形城址>へ。
別名<霞城(かじょう)>と呼ばれるこのお城、今は二の丸だった場所が<霞城公園>となってて、周辺には野球場、体育館、博物館がぐるっと立ち並んでる。
1356年に築城され、慶長年間に最上義光(もがみよしあき)が城郭を拡大、関ヶ原の戦いの功によって57万石を領し、ここを本城とした。
最上義光は出羽山形藩の初代藩主で、義光の妹義姫は伊達政宗の母。
最上家と伊達家はいろいろややこしいらしい。
晴天の下の<最上義光の騎馬像>はとっても迫力あり。
すぐ近くに<二の丸東大手門>。
枡形内の高麗門及び土塀は復元されたばかり。
そして<本丸一文字門>の石垣が復元工事中。
山形市は2033年くらいまでに本丸北枡形の復元を完了する計画とのこと。
今はちゃんとした史料がないと復元させてもらえないらしいからなかなか難しいみたいだけど楽しみ待ちます。
より大きな地図で あちこちマップ を表示
別名<霞城(かじょう)>と呼ばれるこのお城、今は二の丸だった場所が<霞城公園>となってて、周辺には野球場、体育館、博物館がぐるっと立ち並んでる。
1356年に築城され、慶長年間に最上義光(もがみよしあき)が城郭を拡大、関ヶ原の戦いの功によって57万石を領し、ここを本城とした。
最上義光は出羽山形藩の初代藩主で、義光の妹義姫は伊達政宗の母。
最上家と伊達家はいろいろややこしいらしい。
晴天の下の<最上義光の騎馬像>はとっても迫力あり。
すぐ近くに<二の丸東大手門>。
枡形内の高麗門及び土塀は復元されたばかり。
そして<本丸一文字門>の石垣が復元工事中。
山形市は2033年くらいまでに本丸北枡形の復元を完了する計画とのこと。
今はちゃんとした史料がないと復元させてもらえないらしいからなかなか難しいみたいだけど楽しみ待ちます。
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日本100名城のひとつ<岡崎城>へ。
ここは徳川家康が生まれたお城で、別名<龍城>と呼ばれる。
1452年(1455年)に守護代の西郷氏が築城し、1531年に徳川家康のじいちゃんである松平清康が奪いとり改修した。
1542年に家康が生まれた頃は石垣などなく、堀を掘った土を盛り上げた土塁がめぐっていただけ。
一時期今川家の支城となるが、1560年桶狭間の戦いで今川義元が負け、徳川家康が城を取り戻す。
家康が浜松城に本拠を移し、子の松平信康が死んでからは重臣が城代を務めた。
その後家康が関東に入り、豊臣家臣であった田中吉政が城主になってからの城の拡張、整備によって現在の岡崎城の原型が造られた。
3重の天守が完成したのは1617年である。
1873年に廃城となって撤去、1959年に再建された。
2007年のマンション建設のための発掘調査で石垣がみつかり、国内4番目の規模の城であることが判明した。
城の正面にある杉の木、あーは邪魔っていうけど、私はカッコ良いと思うな。
ここは徳川家康が生まれたお城で、別名<龍城>と呼ばれる。
1452年(1455年)に守護代の西郷氏が築城し、1531年に徳川家康のじいちゃんである松平清康が奪いとり改修した。
1542年に家康が生まれた頃は石垣などなく、堀を掘った土を盛り上げた土塁がめぐっていただけ。
一時期今川家の支城となるが、1560年桶狭間の戦いで今川義元が負け、徳川家康が城を取り戻す。
家康が浜松城に本拠を移し、子の松平信康が死んでからは重臣が城代を務めた。
その後家康が関東に入り、豊臣家臣であった田中吉政が城主になってからの城の拡張、整備によって現在の岡崎城の原型が造られた。
3重の天守が完成したのは1617年である。
1873年に廃城となって撤去、1959年に再建された。
2007年のマンション建設のための発掘調査で石垣がみつかり、国内4番目の規模の城であることが判明した。
城の正面にある杉の木、あーは邪魔っていうけど、私はカッコ良いと思うな。
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日本100名城のひとつ<名古屋城>へやってきた。
1532年、織田信秀は今川氏豊が築いた城を奪って那古野城とした。
信秀の嫡男<織田信長>は那古野城で生まれたといわれ、信長が本拠を清洲城に移すまでの居城となる。
関ヶ原の戦いのあと徳川家康は名古屋に城を置くことを決め、天下普請によって廃城となっていた那古野城周辺に築城が進められる。
1612年に大天守が完成し、清洲城から4年かけて家臣、町人、社寺、清洲城小天守までもが大移動。
明治維新後、徳川慶勝は名古屋城の破却を申し出て、本丸は保存されることとなる。
1930年には宮内省から名古屋市に下賜され、建造物や障壁画が旧国宝に指定された名古屋城は、1945年の名古屋空襲によって本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などを焼失するが、1959年に天守、金鯱が再建されていた。
そして今!
バブルが崩壊して中断していた<本丸御殿>の再建が2008年に着工されて、第一期工事が行われている最中。
現場見学ができるというので、覗いてきた。
こんな感じ。
いいなぁ。
釘一本打たせてもらえないかなぁ~。
いや、釘なんて使わないのかもしれんけど・・・・・。
3期に分けて行われるこの工事、すべて完成するのは2022年。
少しづつ公開されることになるだろうから、ときどき見にいこうかなと。
そしてもうひとつ楽しみなのが!
2009年に河村たかし名古屋市長が「名古屋城天守閣をコンクリート造から木造に建て直すことを検討する」と発表してまして。
その後、どうなってるんだろう????
博物館的なコンクリート造りのお城の残念さといったらないので、ぜひとも<木造の名古屋城>実現してほしい。
1532年、織田信秀は今川氏豊が築いた城を奪って那古野城とした。
信秀の嫡男<織田信長>は那古野城で生まれたといわれ、信長が本拠を清洲城に移すまでの居城となる。
関ヶ原の戦いのあと徳川家康は名古屋に城を置くことを決め、天下普請によって廃城となっていた那古野城周辺に築城が進められる。
1612年に大天守が完成し、清洲城から4年かけて家臣、町人、社寺、清洲城小天守までもが大移動。
明治維新後、徳川慶勝は名古屋城の破却を申し出て、本丸は保存されることとなる。
1930年には宮内省から名古屋市に下賜され、建造物や障壁画が旧国宝に指定された名古屋城は、1945年の名古屋空襲によって本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などを焼失するが、1959年に天守、金鯱が再建されていた。
そして今!
バブルが崩壊して中断していた<本丸御殿>の再建が2008年に着工されて、第一期工事が行われている最中。
現場見学ができるというので、覗いてきた。
こんな感じ。
いいなぁ。
釘一本打たせてもらえないかなぁ~。
いや、釘なんて使わないのかもしれんけど・・・・・。
3期に分けて行われるこの工事、すべて完成するのは2022年。
少しづつ公開されることになるだろうから、ときどき見にいこうかなと。
そしてもうひとつ楽しみなのが!
2009年に河村たかし名古屋市長が「名古屋城天守閣をコンクリート造から木造に建て直すことを検討する」と発表してまして。
その後、どうなってるんだろう????
博物館的なコンクリート造りのお城の残念さといったらないので、ぜひとも<木造の名古屋城>実現してほしい。
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日本100名城のひとつ<広島城>へ。
お堀に囲まれ、<鯉城>(りじょう)とも呼ばれるこのお城全域が公園になっている。
お堀に沿って歩き、<裏御門跡>から公園内に入る。
石垣や東小天守礎石や広島大本営跡がちゃんと整備されてる中を進み、<大天守>へ。
もともとの天守は大阪城天守を模したといわれ、大天守の南と東に渡櫓でつないだ小天守があったらしい。
戦前、大天守は国宝にも指定されてたんだけど、原爆の爆風によって倒壊。
現在の大天守は1958年の広島国体にあわせて、鉄骨鉄筋コンクリート造で復元され、博物館になっている(残念・・・・・)。
でも最上階層だけは木造なのだとか。
<中御門跡>を通って<二の丸>へ。
そして1994年に木造で再建された<表御門>。
<表御門>のすぐ脇にあるのが<平櫓>で、<多聞櫓>が続き、向うの角が<太鼓櫓>になるみたい。
爆心地から740メートルのところにあるこの<ユーカリ>は、1945年8月6日の原爆の熱線に黒く焼けたものの、幾度かの台風にも耐え育っているという被爆樹木。
すごい生命力!!!
お堀に囲まれ、<鯉城>(りじょう)とも呼ばれるこのお城全域が公園になっている。
お堀に沿って歩き、<裏御門跡>から公園内に入る。
石垣や東小天守礎石や広島大本営跡がちゃんと整備されてる中を進み、<大天守>へ。
もともとの天守は大阪城天守を模したといわれ、大天守の南と東に渡櫓でつないだ小天守があったらしい。
戦前、大天守は国宝にも指定されてたんだけど、原爆の爆風によって倒壊。
現在の大天守は1958年の広島国体にあわせて、鉄骨鉄筋コンクリート造で復元され、博物館になっている(残念・・・・・)。
でも最上階層だけは木造なのだとか。
<中御門跡>を通って<二の丸>へ。
そして1994年に木造で再建された<表御門>。
<表御門>のすぐ脇にあるのが<平櫓>で、<多聞櫓>が続き、向うの角が<太鼓櫓>になるみたい。
爆心地から740メートルのところにあるこの<ユーカリ>は、1945年8月6日の原爆の熱線に黒く焼けたものの、幾度かの台風にも耐え育っているという被爆樹木。
すごい生命力!!!
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朝早く、というか夜中に起きて、岩国まで突っ走る。
9時少し前に<岩国城ロープウェイ>の乗り場にたどり着き、ロープウェイが9時から動き出すのを待って、再建された天守のある横山山上へ。
1962年、鉄筋コンクリート構造によって建てられたこの天守、ほんとは30メートルほど離れた本丸北側にあったんだけど、麓からよく見えるようにとこの場所に建設されたのだとか。
こっちがほんとの<天守台>で、1995年に発掘復元されたもの。
山上には石垣がたくさん残ってるし、きれいに整備されてて、気持ちよく散策できた。
<錦帯橋>から見上げる<岩国城>。
そういえば、高校の修学旅行で<錦帯橋>にきてるらしいんだよね。
あまし覚えてないなぁ・・・・・・。
9時少し前に<岩国城ロープウェイ>の乗り場にたどり着き、ロープウェイが9時から動き出すのを待って、再建された天守のある横山山上へ。
1962年、鉄筋コンクリート構造によって建てられたこの天守、ほんとは30メートルほど離れた本丸北側にあったんだけど、麓からよく見えるようにとこの場所に建設されたのだとか。
こっちがほんとの<天守台>で、1995年に発掘復元されたもの。
山上には石垣がたくさん残ってるし、きれいに整備されてて、気持ちよく散策できた。
<錦帯橋>から見上げる<岩国城>。
そういえば、高校の修学旅行で<錦帯橋>にきてるらしいんだよね。
あまし覚えてないなぁ・・・・・・。
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